新学習指導要領と国語学習

 2022年度から、高校で新学習指導要領が実施されます。先日、それにともなってつくられた教科書の検定が行われました。地理歴史・公民とともに、国語は科目編成が大きく変わり、実社会とのつながりを意識した学習を重視する構成の教科書が増えました。

 現行の指導要領における国語の必修科目である「国語総合」(4単位)は、22年度より、「現代の国語」(2単位)と「言語文化」(2単位)という二つの必修科目に分けられます。「現代の国語」では、評論や法律、説明書などを扱い、論理的・実用的な国語力をつちかうことを目的とし、「言語文化」では、古文や漢文をふくめた文学的な要素の強い作品をまとめて扱うとされています。その結果、「現代の国語」の教科書で文学作品を単体で扱うことが難しくなり、出版各社は小説や詩などを採用する際には、評論文と組み合わせて載せるなどの工夫をしなければならなかったようです。

 実用的な国語力を重視する改革が行われるのには、基礎的な読解力が身についていない生徒が非常に多いという背景があります。とある調査では、高校入学時に中学校卒業レベルの読解力に達していた生徒が42.5パーセントしかいなかったそうで、事態はたしかに深刻です。

 一方、このような実用性重視の国語改革に反対の意見もあります。

 新指導要領のもとでは、高一で「現代の国語」と「言語文化」という二つの必修科目を履修した後、高二以降では「論理国語」、「文学国語」、「古典探求」、「国語表現」の四科目からの選択制になります。ところが選択制とは言うものの、現行の現代文Bのかわりに選択する科目としては「論理国語」を選択せざるをえないというのです。新指導要領は、論理的思考養成に重点をおいており、入試の問題にも実用的な文章が出るというのですから当然の流れです。そのほかは、「文学国語」と「古典探求」の二者択一になり、入試のことを考えたら、文系クラスは「古典探求」を選ぶことになるだろうというのです。「文学」は切り捨てられるのです。

 紅野謙介氏(日本大学教授)は、伊藤氏貴氏(明治大学准教授)との対談(「国語教育から文学が消える―新学習指導要領をめぐって」、『季刊文科』第78号、鳥影社、2019年7月)の中で、「論理」と「文学」を分けること自体に問題があると言って、エッセーを例にあげます。

 エッセーは「徒然草」や「枕草子」以来、つづいている随筆と同義であるけれども、いいエッセーには一定の論理が込められている。きちんとした構成があって、引用や典拠があり、根拠の提示があり、ソフトなロジックとレトリックができている。(中略)そういうものを論理、文学のどちらだ!と区分けができないですよね。(紅野氏)

 また伊藤氏は次のように述べます。

 そもそも小説や詩であっても、それをきちんと読む時には、論理性が求められますし、あるいは、その自分の読みを他人にも納得させるためには、その説明にも論理性が当然問われてくるわけで、文学教材を使ってもそこに論理が存在しないはずがない!(中略)「文学」と「論理」っていうのが、対義語になっている。文学の反対が論理っていう、この日本語の使い方が非常におかしいというか、危険でもあるなというふうに思います。(伊藤氏)

 曲がりなりにも文学研究をしてきたものとしては、紅野氏や伊藤氏の言うように、文学と論理が切り離すことのできるものなどとは考えられません。文学の中に論理を発見する、一見感性的・感覚的で、混とんとした中に、秩序を発見する、そのことこそが目標でした。そして、その論理を発見できたと思ったとき、大きな喜びがあったのです。

 法律や説明書を読むような「国語」の授業で感動ができるでしょうか。実用的な文章の言葉に心が惹かれるなどということがあるでしょうか。そこに発見することのできる何かがあるでしょうか。

 学びにはもともと感動がともなっています。何かを知ったとき、理解できたと思ったとき、そこには喜びがあります。それは、学びがそもそも、私たちが生きていることと地続きだからです。学びは私たちの人生をよりよく、豊かにしてくれます。そして、私たちにとっての最大の関心事は、私たち自身の心のありようではないでしょうか。人間の感情や心理と向き合ってきた文学の背後に論理を発見することは、だからこそ興味深いテーマになるのです。

 今回の学習指導要領の改定は、入試改革と連動したものでした。長年行われてきたセンター試験を廃止し、大学入学共通テストでの記述式問題の導入という改革とともに指導要領も改定されることとなったのです。ところが、入試改革は事実上とん挫しました。今年実際行われた共通テストの国語の問題は、文学作品を読み解く力が必要な、センター試験とあまり変わらない内容だったということで、実際の高校の国語の授業の内容は、従来と変わらない、文学作品にも目配りをしたものにならざるをえないのではないかという意見もあります。

 いずれにしても、教育を受ける側の生徒は、このような「改革」の影響を直接こうむります。子どもたちには、世界がどう変化しようとも、自分というものをゆるぎなく確立し、しっかり大地に足をつけて生きていける人になってもらいたいものです。そのためには、幼いころから言葉と触れ合い、考えるということをする必要があるのではないでしょうか。

 ギリシャ語のロゴスは「言葉」、「意味」、「論理」という意味をもちます。言葉で考え、表現することを幼いころから習慣にしていれば、学習指導要領がどうであれ、論理的思考は養成できるはずです。